フロンティアエイジ11月号 第7面より
旅-歴史を歩けば
キリシタン自然歩道
茨木に隠れ伝えた信仰 カギ握るか寛容の禅宗
茨木市西北部の「キリシタン自然歩道」ウオークに出かけた。「隠れキリシタンの里」だった千提寺、下音羽の2集落を通る道は全長は約10キロ。同市安威のバス停で降り、西側の集落の路地に入ると三差路に「起点 キリシタン自然歩道」と刻まれた木柱があった。

右に折れ、山中の阿為神社の横を登る。雑木林の中を10数分行くと、右手に広大な新興住宅地が見え、学校もある。茨木サニー団地だ。団地西端に沿った歩道が、コースに組み込まれていた。
その歩道と別れるまで約45分。左手に雑木林があるとはいえ、自然の中を歩くという気分ではない。もっとも、それなりの散策の楽しみは味わえた。「おさん茂平恋道中の碑」や、団地造成で出土した古墳などに、思いがけなく出あえた。
道草を食いながらのウオークだったが、歩き始めて1時間半。やっと自然歩道らしい道に入る。道脇の民家の表札で、もう千提寺集落に入っていることがわかった。
標識に従って尾根道を北に向かうと、迷うことなく市立キリシタン遺物史料館に着いた。山の南斜面に立つ、小さな平屋の洋館風の建物だった。展示室は小学校の教室ほどで、展示品も限られていた。しかし、発見のいきさつなどを紹介したビデオがあり、「隠れキリシタンの里」のいわれがよく分かった。それによると、大正8年にキリシタン墓碑が発見され、研究者がこの地が「隠れキリシタンの里」であることを、突き止めたのだという。
その後、昭和5年にかけて墓碑だけでなく、絵画、彫刻、典籍など信仰にからむ遺物が相次いで発見された。中には教科書でだれもが目にしたことのある、「ザビエル像」(重文・現神戸市立博物館蔵)のような優れた美術品もあり、当時の新聞紙面をにぎわせたらしい。
ウイークデーなのに、ちらほらと入館者があった。史料館の話では「昭和62年の開館以来入館者は17万人を超え、外国からのお客様も増えた」とのことだった。
「江戸期の大都市・大坂から近いこの地に、どうしてご禁制のキリシタンが暮らせたのだろうか」。学界で論争もあり、得られるはずのない解答だとは思いながら、史料館を出てからもその疑問が頭を離れなかった。
ビデオでは、強固な信仰を持った人がこの地を選んで隠れ住んだとか、領主・高山右近に従って改宗した人たちがたまたま残ったなど、いくつかの説が紹介されていた。
これまでトルコのカッパドキアをはじめ、世界各地で頑なに信仰を守った人々の暮らした地を見てきた。そのほとんどが、厳しい自然環境での暮らしだ。生き延びるには、宗教で団結するのが最善の方法だったというのが現地での説明だった。
それに比べ、ここは山里ではあるが、貧しい土地だったとは思えない。棚田とはいえ稲作もできた。それに、集落ぐるみで信仰を守ったわけでもなく、個人または個々の家が信仰を伝えたのである。
遺物を伝えてきた千提寺と下音羽の住民が、いずれも禅宗(曹洞宗)高雲寺の信徒であったという説明は興味深かった。禅宗は比較的、他の宗派に寛容である。この地の「隠れキリシタン」の存在を説明するには、「日本人の宗教的寛容さ」を抜きにしては語れないのではないかなどと考えた。
史料館から30分ほどかかった忍頂寺の集落までは、野山歩きの楽しさを十分に味わえるコースだった。ここは四方から大きな道が集まっており、東海自然歩道も通過する。そのため、道路標識がややこしく、長谷口バス停に向かう自然歩道ははっきりしない。ままよと、下音羽に向かって大型車の走る道を歩き始めると、再び「キリシタン自然歩道」の標識が現れた。長谷口バス停へ着いた時は、出発してから4時間経っていた。
千里中央とJR茨木駅行きのバスがある忍頂寺に引き返す途中、キリシタン墓碑のある下音羽の高雲寺に立ち寄った。トタン屋根の下で、二つの墓碑が並んでいた。今は文化財として大切にされていることが分かった。
気ままなウオーキングのつもりだったが、信仰とはなにかを考えさせられる小さな旅になった。 (高橋 徹)
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