旅-歴史を歩けば 津・伊賀上野
フロンティアエイジ2月プレミアム号 第3面より
旅-歴史を歩けば 津・伊賀上野
伊勢を支え伊勢と栄え 街の風情は名君の遺産
津ではまず、港を見たいと思った。
伊勢は津でもつ
津は伊勢でもつ
そううたわれるほど伊勢参宮でにぎわった宿場の港が、いかほどのものか興を引かれたからだ。
岩田川の川口にある「津なぎさまち」には今、中部国際空港への高速船が発着するだけの小ぢんまりした港があり、その左にヨットハーバーが広がっていた。

古くは安濃(あの)津と呼ばれ、中国・明の古書では鹿児島の坊津、福岡の花旭塔(はかた)津と並んで日本三津に数えられている。港に揚がった海産物や明からの貿易品は、伊賀上野を経て木津へ通じる伊賀街道(現163号)をたどり、奈良や京の都へ運ばれた。
安濃津は伊勢と大和を結ぶ交通の要所だったのだ。最盛期の人口は1万人を超えたとも伝えられる。しかし明応7(1498)年の大地震で港は壊滅。その後、18世紀に参宮客の宿場として復活した。
市役所の近くで城郭の櫓(やぐら)を見つけた。慶長13(1608)年に入府した藩主・藤堂高虎が改修した津城の跡。小さな公園になっていて騎馬武者姿の高虎の銅像が立ち、小作りな和風の庭がある。
高虎は近江の生まれ。何人かの主に仕えた後、羽柴秀吉の弟秀長のもとで1万石の大名に。秀長の死去で出家したが秀吉に召され、秀吉没後は徳川家康の忠臣となり、藤堂家は32万石余の大大名として幕末に至る。
高虎に対する世評は日和見主義・寝返り大名などと厳しいが、津では大違いでまさに名君。400年を経た今も津の人たちは「津を甦らせた恩人」と称える。高虎は城造り、町造りの名手で江戸城、大坂城を含めて約20もの城の改修、築城に携わった。津でも海岸近くにあった伊勢街道を町中へ引いて旅籠や商店を繁盛させ、前任地から来た人たちが住む伊予町、漁民や魚商の浜魚町、海運業者の築地町、寺院を集めた寺町などを作った。
伊賀街道を西に下ると五百野の左方に榊原温泉(アルカリ性単純泉)があり、ここで1泊。湯元榊原館によると、榊原は清少納言の「枕草子」に「湯は七栗の湯、有馬の湯、玉造の湯」とある七栗の今の名という。高虎も骨休めに来たことが・・・などと想像しながら雨の中、菅笠を借りて露天風呂へ。闇にかがり火が燃え、菅笠を打つ雨の音。ちょっと乙な湯あみになった。
翌日、上野へ。まず伊賀上野城へ向かう。高虎は入府3年後の慶長16(1611)年に縄張りし、規模を拡大した上、内堀に高さ30メートルの石垣を組むなど防備を固めた。天守閣から眺めて東方にある小さな空き地は、前領主・筒井定次の居城跡。筒井氏が治めたのはそれより北方で、高虎は南方を京の町にならって区画した。今も古色豊かな家並みが整然と並んでいる。
城の北側に伊賀流忍者博物館がある。上野は郷士の力が強かった。後に彼らが服部半蔵らと結んで作ったのが強力な忍者集団。高虎は半蔵ら幹部を重臣に据え、他の者を無給の士分に取り立てた。これが藤堂藩を安定させた。
「忍者うどん」を出すという城下の茶店へ入った。碗の中は素うどんに見えたが、食べるにつれ底の方から海老や鶏肉や卵や蒲鉾が出てくる。これも忍術か。伊賀街道を行くと松尾芭蕉の生家。そういえば「芭蕉忍者説」もあったが、なにせ俳聖。上野駅前に像が立つ。さらに伊賀信楽古陶館、高虎が力を入れた藩校の崇広堂跡、そして剣客荒木又右衛門が義弟・渡辺数馬の仇討ちに力を貸した鍵屋の辻に着く。数馬茶屋へ甘酒を飲みに入ると、話し好きのおばさんが「藤堂さんも偉いけど、又右衛門も偉い」と話しかけてきた。 (川崎市郎)
◆メモ 津・上野へは近鉄難波~中川~津新町、伊賀鉄道に乗り換え伊賀神戸~上野市。上野直行はJR難波~王寺~木津~伊賀上野▽車なら西名阪自動車道・松原~天理~国道25号・上野~国道163号・津。




































Recent Comments